魔法―――――それはおりしも、誰もが夢見て恋焦がれる存在。森羅万象、全ての事象を曲げて何かを起こすその能力を、誰もが欲しただろう。

 ここに、一人の魔法遣い≠ェいる。

それは、普通の生活をして生きてきた、たった一人の高校生。目立ちもせず、忘れられもしないその存在は、確かにたった一つの魔法をつかえたのだ。

この話は、その小さな魔法の話である。

 

 

 

 

 

 

 小さな魔法遣い

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ

 

 自分の能力に気がついたのは、多感な時期―――小学一年生だった。いつものように誰もいない家に帰った時、大好きなお婆ちゃんが家で夕飯の準備を始めていたときだったのだ。

 自分の家のガスコンロは、発火装置が壊れていたせいか、火がつかなかった。それに困っていたのは、大好きなおばあちゃんだ。

「あら、困ったわねぇ」

 その時、自分はそのままさも当然のように、笑顔でお婆ちゃんの前にたつ。そして、ガスを開けながら人差し指と親指を、少しだけ擦った。

 パチッ、という軽い音と共に、火花が散る。瞬間、炎が点き、そのまま完全燃焼を示す蒼い炎が広がっていたのだ。

 それをみていたおばあちゃんは、笑顔でそれに喜ぶ。自分はそれがたまらなく、嬉しかった。

「翔ちゃんの手は、魔法の手ね」

 今思えば、おばあちゃんはその時からボケていたような気がする。家族に変な奇声を上げながら手を上げるわけではなく、食事や洗濯など、同じような事を繰り返していたからだ。

 そのころは、小学校でそれができるのが自分だけだとは思わず、当然のようにやっていた。当然なので、友人などに話す機会など、全くなかった。だからこそ高校生になるまでばれずにすんだのだから、幸運というべきかも知れない。

 そのおばあちゃんが、自分の手を擦りながら、告げる言葉がある。自分はそれが、大好きだった。

「暖かくて、ホッとする手。とっても、優しい手ね」

 そう擦っていたのは、病院のベッドが最後だった。おばあちゃんは自分が手を出すと、いつも壊れ物でも触るように触れていたのだ。

「きっと、多くの人を助ける為に、あるのよ」

 事あることに、おばあちゃんはそう告げていた。ボケていたはずなのに、その時のおばあちゃんは真剣かつ、優しい――――そしてなにより、寂しそうだった。

 なぜ、この時のおばあちゃんはこのようなことを言っていたのだろうか? それどころか確信めいたその口調は、幼心にも恐ろしかったのだ。

「翔ちゃんは、きっと多くの人を助けるわ。おばあちゃん、わかるもの」

 そういって、おばあちゃんは死んでいった。まるで、予言めいた事を言うかのように。

 そして、今、自分はこうして生きている。他の人間と違いなく、ただ、平凡に。

火花が出る、『小さな魔法が使える手』を持って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   一、平凡な日々。

 

 二〇〇九年 十月 二十九日 

「お兄ちゃんさん、起きてください〜」

 困ったような、それでもどこか嬉しそうな声―――――それを聞いて、寝ぼけた感覚のまま、相手を推測しながら眼を擦る。

 そこでようやく、自分が眠っていることに気がつく。そしてその相手が、自分を起こしていることにも、同時に気がついた。

「お兄ちゃんさん、朝ですよ〜」

「分かったから………」

 眼を開き、相手を見据える。起きた瞬間から湧き上がる感情――――怒りを滾らせ、鷹藁 翔は体を持ち上げた。

 視界に映るのは、いつもの自分の部屋。そこかしこに、学校で配られたプリントやら雑誌やら、どこから出てきたか分からない服などが散乱している、六畳間の洋室。

 その視線を、体の前に戻す。中心にいる、もう一人の人間を見て、眉を潜めた。そしてそのまま、不機嫌な顔を隠さず、口を開く。

「人の部屋に入るなよ、杏樹」

 そこにいたのは、杏樹――――短い赤毛に、人より少し大きめの瞳、そして線の細い顔立ちとは対照的に太陽のように晴れた笑顔を浮かべる、一歳年下の妹だ。

 中学三年生という歳としては、かなり幼い。よく笑い、よく泣き、よく怒る―――感性豊かな、運動神経抜群の天然娘だ。

 杏樹は、コロコロと笑いながら続けた。

「ようやく起きたですね、お兄ちゃんさん」

 嬉しそうな笑顔―――それを見て、翔の苛立ちはさらに募った。それを隠しもせず、苛立つように告げた。

「人の話を聞いていなかったのか、杏樹? それに、お兄ちゃんさんは止めろっていったよな? 確か………? それと、そこを退け」

 苛立ちの翔の言葉を聞いて、彼女はしばらく沈黙する。そして、いま自分がいる場所をみて――小首を傾げた。

「ほぇ?」

 翔の頭に、とうとう、限界が来た。それを知らせるように、頭から異音が―――ブチッと何かが切れる音が、頭から鳴り響く。

「ほぇ、じゃねぇッ!」

 そういい、自分の布団を引っ張り上げる。そこにいた―――正確に言えば、翔の腹の上に座っていた杏樹は、そのまま布団にお尻を持っていかれ、体勢を崩した。

「わわっ!?

 驚きの声をあげるが、しかし、すぐに彼女はベッドに両手をつくと、そのまま身体をクルッと回し、ベッドの横に降り立つ。そしてそのまま両手を上に上げ、満面の笑顔で呟いた。

「十点♪」

「十点♪、じゃねぇッ!」

 そう叫び、立ち上がる。自分の胸の高さしかない杏樹を見下ろし、叫びつけた。

「大体、今日は土曜日だろうがッ! 何故わざわざ俺の甘美なひと時を邪魔するッ!?

 一通り叫び、目の前の妹の頭を手で掴む。その手を気にした様子もなく、杏樹は笑顔で答えた。

「朝ご飯食べないと、元気でないですよ? お兄ちゃんさんも一緒に♪」

「………………」

 しばらくの沈黙――――しばらくの時間を置いて、翔の顔が綻んだ。それに安心したのか、杏樹の顔が完全に笑顔になる。

 その笑顔のまま、翔は告げた。

「そうだな、朝ご飯は食べないとな」

「うん♪ そうですよ♪」

 翔は満面の笑顔そのまま、腕を回し杏樹の首をクルリとかえた。首に従うように、彼女は身体を後ろに向ける。

そしてそのまま、翔は叫ぶ。

「朝四時に起こすなァ!」

 そのまま、思いっきり部屋の外へ、押し出した。そして、そのままドアの鍵をかけると、ドアの隙間に紙を突っ込み、完全に音を遮断する。

 フラフラした足で、ベッドにもぐりこむ。惰眠を貪るように、未だに温もりの残っている布団で、大きく息を吐いた。

 

 杏樹は、翔の妹ではない。正確に言えば、血が繋がっていないというべきだろうか。

 翔の両親は、六年前に交通事故にあい、祖母に続くように死んでしまったのだ。一人残された、一人息子の翔は親戚伝いに引き取られた。その先が、杏樹の家族だったのだ。

 小学校三年の後期から、生まれ育った町を出て違う町に来た彼は、不慮の事故で家族を亡くしたショックから、数回自殺し損ねた事があるほど、自暴自棄になっていた。

 それでも彼をここまで復帰させたのは、杏樹とその両親である、鷹藁夫妻の努力というべきだろう。いまでは友人もたくさん出来、この町にも慣れたのだから。

 しかし、翔はいつまで経っても性格が変わらなかった。どこか諦めた、やる気のない性格―――――。

 それは、最後まで変わらなかった。

 

 朝十時。二度寝を十二分に楽しんだ後、翔は大きな欠伸で脳内に酸素を送りながら、一階に降りていった。寝ぼけているのか、足元がフラフラしている。

「あ、お兄ちゃんさん」

 廊下に置かれた水槽の前で、杏樹が声をかけてくる。どうやら、飼っている金魚をバケツに移して、水槽の水を替えているようだ。足元には、バケツが置いてある。

「………杏樹、父さんは?」

 声をかけられ、杏樹は掃除の手を止める。悩むように右斜め上を見上げ、ご丁寧に顎の辺りに人差し指を当てながら、答えた。

「お出かけですよ? お母さんは、町内会の会議です」

「じゃあ、夕方までは帰ってこないな」

 そう断言して、翔は頭をかく。昼時に起きた身としては、朝と兼用で何かを食べたいのだが、如何せん料理が出来ない。

 そう思って、何気なしに杏樹を眺めていると、杏樹はその視線に気がつく。慌てて眼をそらそうとしたが、一瞬遅く彼女は、笑顔を向けた。

「お兄ちゃんさん、僕が作ってあげますよ♪」

「い、いや、それは………」

 翔の言葉など無視して、彼女はタッタッタッと軽くステップするように歩いていった。

「お兄ちゃんさん、金さんと銀さんの水代えておいてください♪」

 面倒臭い一言を残して。

 ここで補足しておくが、杏樹は別に料理が苦手なわけではない。プロとも呼べるほどの腕前レベルのうえ、レパートリーも豊富だ。

 なんでもないことだが、杏樹の一人称は「僕」だった。これも幼少時代、まわりに女の子がいなかったせいか、時々遊びに来ていた翔の言葉が移ったのだ。

 仕方無しに、廊下の水槽を洗面所に持っていく。水槽の水を洗面所で替え、金魚(金{赤}と銀{出目金})を入れる。前の水を少し残しておくのが、元気に飼うポイントだ。

そのまま、翔は自分の顔を鏡で見た。ボサボサの髪に少し伸びた髭が、自分の格好悪さを引き立てている。

(………シャワーでも浴びるか)

 そう考え、金魚の水槽を廊下に戻す。その音に気がついた杏樹が、キッチンから顔を出し、声をかけてきた。

「もう少しで出来ますよ〜」

「ああ、その前にシャワー浴びてくるよ」

 淡々とそう答え、翔は洗面所に戻っていった。完全に鍵をかけると、上着を脱ぎ始める。

 その間、今日やることを考えていた。出かけるには申し分ない天気だが、気が進まない気もする。どちらにしろ、面倒臭いのには変わりない。

(………昼寝するか)

 そう考え、裸のまま風呂場に入っていった。一瞬後、扉のドアノブが少しだけ動く。

 その音を聞いて、大きく溜め息を吐く。どうせ、杏樹がいたずらで開けようとしていたのだろう。

 しばらくして、頬を上気させた翔はタオルを腰に巻いたまま、洗面所から出て、二階に上がっていった。その途中で、鼻についた匂いから昼の献立を予想する。

(………チーズの匂いだから、グラタンかドリアか)

 洋食が得意な杏樹の料理に、翔は苦笑した。いつまで経っても、妹に甘いかもしれない。

 二階で服に着替え、一階に降りる。とはいえ、出かけるつもりもなく、いい加減な服装だった。

 キッチンに面したリビングに顔を出すと、杏樹の満面の笑顔が迎えた。わざわざ着込んでいるエプロンをひらひらさせながら、手に持った耐熱皿を、ソファーの近くにある机へ置いている所だった。

「お兄ちゃんさん、座っててくださいです〜。紅茶とコーヒー、どっちがいいですか?」

「コーヒー」

 そう短く答え、ソファーに座る。チーズの程好い焦げた匂いと、ホワイトソースの匂いが食欲をそそった。予想の片方、オニオンドリアだった。

「はい、どうぞ♪」

 その言葉と共に、目の前へコーヒーカップが置かれる。軽く礼を言いながら、それを手に持って、口をつけた。

「………苦いな」

「モカ・ジャバとマンデリンを混ぜたんです」

 笑顔のまま、彼女はスプーンを差し出した。それを受け取り、翔はドリアを一口運ぶ。

 二、三、噛む。それを飲み込むと、小さく息を吐いた。

「美味いな。また、腕が上がったんじゃないか?」

「へへぇ、そうですか?」

 恥ずかしそうに言いながらも、どこか満足げな杏樹。彼女を見て、翔はいたずらするような笑顔で告げた。

「これで、いつでも御嫁にいけるな。これなら、幾らでも貰い手はいる」

「えへへ〜〜〜〜」

 顔がにやけ過ぎて、原形が崩れ始めそうだ。それを止めるために、軽くチョップを頭に打ち込んでやる。いきなりの不意打ちか、杏樹から潰れる声が漏れた。

「いい加減にしろ。褒めると、すぐに調子に乗る」

「ううぅ〜〜。舌を噛んだです〜」

 何事か呻いている彼女を差し置いて、翔はさっさと昼飯を平らげた。翔の十分の一のスピードで食べる杏樹をみて、翔は尋ねた。

「それで、未だに彼氏は出来ないのか?」

 お決まりの文句。それは、事ある毎に杏樹へ向けた、翔の心配事だった。

「え? ………う、うん」

 杏樹は―――――可愛い。兄バカだと思われるかもしれないが、小柄ながらも端整な顔立ちに、すぐに誰とでも仲良くなれる明るい性格と運動神経のよさから、人気も高い(はずだ)。

 しかし、彼女に恋人がいるという話を聞いた事は、なかった。もしかしたらいたかもしれないが、土日はほとんど家に居たから、多分それはないだろう。

(………まさか、俺が好きだとかいうオチはないよな?)

 恐らく――――いや絶対、それはない。

一緒に住んでいるのだから、普通の相手とは違う、見られたくない一面や見たくない一面など、全てを見られているし、見ている。だから、好意など抱く事は無いだろう。

仲はいいが、悪いまま続く兄弟の縁はない、と翔は確信している。

 では、何故か?

やはり、仲のいい兄貴の存在が、問題なのだろう。兄である翔に彼女がいないのだから、自分が彼氏を作るわけにはいかない、という考えがあるのかもしれない。それが、翔の悩みの種だった。

「………なぁ、俺に気を使ってるなら、気にしなくてもいいぞ? 俺は、別に彼女作るつもりも無いし」

 出来る限り軽い口調で、そう告げる。本当に気を使って作らないのなら、申し訳ない気がするからだ。

 しかし、杏樹はコロコロと笑うと、答えた。

「僕は、理想が高いだけですよ。お兄ちゃんさんが気にすることじゃないです〜」

 その杏樹の顔をしばらく見て、頷く。どうやらそれが、本音らしい。

 ある程度納得した後、翔は立ち上がった。最近動いていないせいか、随分と体がなまった気がする。

「また寝るんですか? お兄ちゃんさん」

 咎めるわけでも無い、それでも少しだけ呆れたような言葉。それを発した自分の妹へ、翔は振り返った。さすがに顔を向けられるとは思ってもいなかった杏樹は、驚いたように視線を外した。

「………杏樹。何か、やることあるか?」

 何となく、そう尋ねた。何かしようと思うのだが、やることが思いつかないのだ。

 杏樹はその言葉に、パッと顔を輝かせた。スプーンを握り締めながら、嬉しそうに声をあげる。

「でしたら、屋根の修理………。また、穴が開いちゃって………」

 テヘッ、という感じで頭を掻く妹を見て――――翔は大きく溜め息を吐いた。

「またか………」

 彼女の部屋を思い出し、辟易したように溜め息を吐く。食器を片付けた彼女を見て、小さく尋ねる。

「で? 今日はどうして穴が開いたんだ?」

 翔の言葉に、杏樹はぎくっと体を跳ね上げた。苦笑というよりは、完全な失笑という表情で、答える。

「………ペットボトルロケット」

「………もう少し、マシな理由にしてくれ。………いや、それ以前に女の子の部屋の天井が開くような理由は、普通ないけどな」

 こういう妹である。料理もさることながら、工作系も好きな女の子なので、よく部屋の中で実験をするのだ。たとえば、どこから持ってきたのか、ニトログリセリンを爆発させた事もある。

 大きく溜め息を吐きながら、翔は杏樹に声をかけた。

「なら、道具持ってくるから」

 頭をかきながら、翔は外にある道具箱をとりに行こうとした。その翔を、杏樹は引き止める。

「あ、部屋片付けるから待ってください」

 その言葉に一瞬眼を伏せたが、年頃の女の子だという事で納得する。また頭をかきながら、適当に手を上げて部屋を出て行く。

「なら、準備が出来たら声かけろ。外にいるから」

「はぁ〜い♪」

 陽気な妹の声を聞きながら、翔は外に出て行った。

 

 

 

「………は?」

 困った心境を搾り出すような、その言葉。自分の口から出たものとは思えない、唖然とした言葉に、思わず一歩後ろに下がってしまった。

 目の前にいるのは、黒い犬。その犬は、真っ赤な眼をして、こちらをじっと睨んでいた。その前足の片方は、事故でなくしたのか、ない。それでも古傷なのだろう、犬は三本脚で器用に座っていた。

 べつに、犬は珍しくない。紅い眼というのは珍しいかもしれないが、このご時世、変種としていてもおかしくないだろう。

 問題は、その犬の声だ。

「なにボケッとしてやがる、阿呆」

 喋ったのだ。それも、流暢な日本語で。

 それをじっと見ていた翔は、屈んでその犬を真っ直ぐ見る。じっと眼を凝らして見ながら、顎を擦った。どう話しているのか気になるが、それよりも気になることがあった。

 ふかふかした、普通の犬よりも毛の多い尻尾。そして、逆三角形の顔立ち――――それを見て、翔は考えた。

(………イヌっつうよりは、………狐か?)

「狼だ」

 またもや犬(?)は、口を開く。その口も、ただ開いているようにしか見えない。

「………むぅ、心の声はわからないという公衆暗黙のルールを破っているな」

「いや、話しているのは完全に無視か?」

 犬(?)のツッコミを聞いて、翔は眉を潜めた。

「犬に突っ込まれるのは、なかなかにキッツイな。この気持ちを味わった人間は、どれほどいるだろうか?」

「とりあえず、人面犬や犬語翻訳機で突っ込まれないかぎり、ありえないな。狼に突っ込まれたのは、恐らくお前が始めてだ」

 冷静に言われ、翔は頷いた。というより、犬語翻訳機に「なんでやねん」とか入っていたら、それに突っ込みたくなるだろう。

「………思考がずれてきたな」

 小さく頭を振って、今までの思考を振り払う。そして翔は、今起きている事に眼を向けた。起きている事――――つまり、人語を話す狼に向けて、だ。

 真っ黒な狼は、ジッと睨みつけるようにこちらを見ている。なぜこの狼が自分に声をかけ、このような会話を続けているのか、わからなかった。

 ついでに言えば、何故門が閉まってあるはずである家の庭に犬が入っているのかも、わからなかったのだ。そして、自分に声をかけているのも。

 そう、わからなかったが、予測は出来た。その予測は、恐らく間違っていないだろう。

「で、何か用か?」

「ああ。魔法遣い≠ノ、用がある」

 どうやら、予測はあたっていたらしい。というより、それしか思い当たる節はなかった。

 大きく溜め息を吐いて、翔は頭を振る。初めて会う事象だったが、それで我を失うほど子供ではない。

 そのまま、庭を見渡す。それほど大きくない庭の一角に、目当ての物が置いてあった。

 日曜用具やら何やらが入っている、物置。日曜大工という言葉どおりではないが、確かによくお世話になっていた。

 そこに向かいながら、狼へ声をかける。

「悪いが、俺は魔法遣い≠カゃない。ただの、一般人だ」

「一般人が、普通に俺と話しているっつうのか?」

 狼のツッコミを聞いて、翔は眉を潜める。確かに、自分がとった行動は普通の人間としては説明力がない。そう考えると、確かに自分の適応力は高いだろう。

 それでも、大きく首を振る。

「大体、俺は魔法がつかえないっつうの。出来る事といえば………」

 スッと腕を前に出す。そして、指を鳴らすが如く、指を動かした。

 パシン、という軽い音と共に、火花が散った。それは、刹那の如く光を発すると、その場で鎮火――――消滅する。

 呆然(か、どうかはわからないが)とした顔で、狼はそれを見ていた。苦笑するように頬を吊り上げると、物置の前に屈んだ。

「これしか出来ない。わかっただろ? 魔法遣い≠ニ呼ぶには、幼稚過ぎだって」

「おお、魔法だ」

 沈黙。永遠に続くかもしれない長い沈黙が、その場に訪れた。

 動かしていた手すら止めていた翔は、ぎこちなく振り返ると、狼に向かって口を開く。

「はぁ?」

 物凄く不穏な言葉が聞こえてきた気がした翔へ、追い討ちをかけるように狼が続けた。

「いやぁ、十五年魔法遣い≠探していたが、本当にいるとはな。これでようやく―――――――」

 そこで、狼の声が消えた。ようやく、といった後にはもう、何も言わなくなった。

「………ようやく、何だ?」

 不穏な空気を感じた翔は、言葉の先を催促する。しかし、狼は小さく首を横に振ると、話を変えた。

「いや、気にするな。それに、俺は別にどうこうするつもりは無い。唯一つだけだ」

「? なんだ?」

「俺を飼ってくれ」

 ポン、とかがんでいた翔の腰に手を置く。その触り慣れていない感触で、翔は―――――自分の頭の中で、いつぞや聞いたことのない、異音を聞いた。

 とっさに日曜道具の中からカナヅチを取り出すと、それを振りかぶる。

「誰が、テメェみてぇな犬を飼うかァッ!」

 (*自主規制*)

「お兄ちゃんさん、準備できましたよ」

 その声と共に、翔は顔をあげた。首からかけられたタオルで汗をふきながら、手を上げる。

「おう、今行く」

 妹の呼びかけに、翔は立ち上がった。血糊のついたカナヅチをボックスの中に入れ、三十センチ角の木材と針金、チタンの板を持ちながら部屋に戻っていく。

 庭には、掘り返された跡とそこに突き刺さっているシャベルだけが、佇んでいた。

 

「? カナヅチに紅い色がついているけど、どうかしたのですか?」

「気にするな。気にすると負けだぞ、妹よ」

 訝しげに見ている妹を差し置いて、翔は部屋の中を見渡した。

(………こうしてみると、女の子の部屋だよな)

 部屋の中心に置かれた、円形のガラステーブル。それを囲むように幾つかのクッションと座布団が、青い絨毯の上にのっていた。

 そして、部屋の中にある本棚と勉強机、そしてタンス。その横に、ベッドがあった。

「うわぁ、部屋の中見ないでください〜〜」

「そう恥ずかしがるもんでも無いだろう。つーか、お前は俺の部屋に入っていただろうが」

 物色はわるいことだと自覚しながらも、毎朝勝手に入ってくる杏樹への軽い仕返しのようなものだ。困った様子で慌てる妹を差し置いて、翔は天井を見上げた。

「………あれか」

 部屋の中心から少しずれた場所に、確かに穴が開いていた。とはいっても、突き破っているわけではなく、屋根裏が少々見えるほどだ。

 それを目算して、翔は唸る。どう考えても、ペットボトルロケットがぶつかって空くような穴ではない。

(そう、たとえば………・)

 そう考え、部屋の中を眺める。一周グルッと見渡して、頭の中で大抵の物をあの穴に当てていく。

 やがて、候補が二つ挙がった。

一つは、彼女の枕元にある目覚まし時計。もう一つは――――――――――――

「………杏樹」

「ほぇ?」

 いきなりの真剣な翔の問いかけに、杏樹は間の抜けた声を返した。しかし翔は、それを気にした様子もなく、彼女に近付いていく。

 そして、頭の上に手を乗せた。さすがの杏樹も、それには狼狽する。

「お、お兄ちゃんさん、な、何をぉ!?

「………・杏樹、お前」

 大きく溜め息を吐き、手を離す。呆然としている彼女へ、翔は小さな声で告げた。

「また、飛び跳ねていただろ?」

「う………・」

 翔の言葉に、杏樹が呻く。それが決定的な証拠となり、翔はようやくその原因と謎が全て解けた。というより、それ以外に考えられることがない。

 ベッドの上で跳ね回るのが好きなのは、承知の上だった。過去何度も天井にヒビが入り、すでに彼女の部屋の壁紙の下は、継ぎ接ぎの木の板だらけだ。その全てが、翔の直した所である。

 大きく溜め息を吐きながら、翔はテーブルの上にのる。手慣れた手付きで木の板を天井に添えて、その大きさを測った。そのまま打ち付けても良いのだが、変に段差が出来てしまうので、天井を少し削ってそこにはめた後に、板をつけることにする。

「杏樹。下から新聞紙もって来てくれ」

「はぁい………」

 少しだけ打ちひしがれた様子で、杏樹は下に降りていった。自業自得だと鼻を鳴らしながら、翔は自分の部屋に向かう。

 勉強机の三段目に置いてあるサバイバルナイフ。父親の残した、唯一の形見を取り出す。革のホルダーから取り出したナイフは、ぎらぎらと輝いて、よく切れそうだ。

(………まぁ、軍用だっつうし。でも、今は木を削るだけか)

 どこの国の軍隊に属していたかはわからないが、翔の父親は軍人だったらしい。その父親と母親がどのようにして出会ったのかは分からないが、今では知る機会も方法も無い。

 そのナイフをクルクルと回し、翔は杏樹の部屋に戻ってきた。

とはいえ、彼女が戻ってこないと板の加工も出来ない。必然的に、暇になる。

「どれどれ………」

 悪いことと知りながら、妹の部屋を覗く。こういうときは、いつの時代もドキドキするものだ。

「………? 何だ? これ」

 それを見つけたのは、彼女のベッドの上にある棚だった。どの部屋にでもありそうな写真立てを覗き込み、眉を潜める。

 そこには、誰も写っていない写真が置いてあった。誰も写っていない、というのは写真の中心に真っ白な人影のことであり、その横に杏樹の笑顔が太陽のように輝いている――――――。

(………これ、俺が消えてる?)

 写真立てを手に持って、眺める。それを指で触りながら、考えた。

(軽い嫌がらせか? いや、軽いというより結構辛辣だけど―――――)

 と考えて、頭を振る。どう考えても、万年頭に花が咲いているような妹に、現存している写真から特定の人物を真っ白にすることなど、出来るはずがない。

「あ〜〜〜〜〜〜ッ!」

 部屋に響く、叫び声。その声を聞いた翔は、その叫び声の方向を向く。

 そこには、新聞紙を抱きかかえた杏樹の姿があった。その杏樹は、翔が持っているもの――つまり、写真立てをみて、大声をあげたのだ。

 次の瞬間には、新聞紙を投げ捨て、その写真立てを翔の腕からひったくると同時に、ベッドへ飛び込んでいた。

 ベッドに倒れている杏樹は、顔を真っ赤にして写真立てを胸に抱きかかえ、呂律の回らない声で弁明の声をあげた。

「こ、これわ、きょ、きょだいだの思いへでも上げてらッ!」

「落ち着け、阿呆」

 ドスン、と杏樹にチョップを降ろす。その衝撃で舌を噛んだのか、彼女は口を押さえてベッドの上でのた打ち回る。そして、最後にベッドから転げ落ちた。

 その様子を見ていた翔は、大きく溜め息を吐きながら、告げる。

「どうでもいいが、何だ? その写真」

 白い影の事を聞きたかったが、杏樹は先に口を開いた。

「お兄ちゃんさんと一緒に写ってる写真がこれしかなくて………。思い出に」

「………はぁ?」

 翔の「はぁ?」の意味は、一般的な意味ではない。杏樹の言葉を聞いて、腑に落ちないことが出てきたからだ。

(………写っている写真が、あれ一枚―――――?)

「べ、別に深い意味は無いですよッ!? で、でも僕、お兄ちゃんさんの事が、………じゃなくて、で、でも………」

「なぁ、杏樹………」

 未だに錯乱している妹を見て、翔は声をかけた。しかし、さすがに翔の言葉に籠もっている重さに気がついたのか、少し不安げな表情で見返す。

 その妹を見て、翔は尋ねた。

「その写真、何かおかしくないか?」

「ほぇ?」

 素っ頓狂な声をあげ、あわてて写真を見て、それでも小首を傾げる杏樹をみて、翔は「なんでもない」と首を振る。彼女の対応を見て、全ての疑問が解けたのだ。

(………俺だけ、俺が見えない?)

 もし写真の中の自分が消えていたら、さすがの杏樹も驚くだろう。真っ白なのを疑問に思わないわけではないだろうし、もし悪戯なら、まず謝るはずだ。そういう悪戯をするような妹には思えないのだから、やはり事実は一つ。

 自分が、見えない。

(………まぁ、いいか)

「ほれ、新聞紙よこせ。さっさとやるぞ」

「は、はいですッ!」

 慌てて新聞紙を差し出す妹を見て、翔は大きく溜め息を吐き出しながら―――――――――ナイフを取り出した。

 

 

「ったく、酷いことをするな、お前は」

「何だ、生きてたのか」

 天井の穴を塞ぎ終え、一階の和室の縁側でお茶を飲んでいた翔は、その声に視線を降ろした。土だらけ―――そして、頭から血を出している狼を見て、翔は御茶を横に置く。

 そして、眉を潜めながら告げた。

「よく生きてたな? 完璧に殺したと思ったんだが」

「一発殴って生き埋めにされて、さすがに死ぬかな? とも思ったが、問題なかったんだ」

 何が問題ないのか聞いてみたいが、翔は口を紡ぐ。どうせ、目の前にいる存在は摩訶不思議生物なのだから、生きていてもおかしくない。

 適当に手を振りながら、告げた。

「どっちにしろ、うちの妹が犬アレルギーでね。お前を飼うわけにはいかないんだよ。そもそも、人語を喋る犬なんて―――――」

「お兄ちゃんさん、誰と話してるのですか?」

 突然―――杏樹の顔が視界に入ってきた。さすがの翔も、それに驚き近くの御茶を倒しながら後ろにあとずさった。

「お、おいッ! 驚かすなよッ!」

 翔の言葉に、別段驚かすつもりもなかったのであろう杏樹が、眉を潜めたまま答えた。

「お、驚かすつもりは全くなかったんですけど………ごめんなさい」

「い、いや、それより………」

 杏樹の事より、今は喋る狼のほうが気になった。

 慌てて庭を見たが、どこに消えたのか、狼の姿はなかった。「あれ?」と小さく呟き、辺りを見渡していると、杏樹が声をかけてきた。

「お兄ちゃんさん、お母さんから電話です」

「あ、おお、わりぃ」

 杏樹が手に持っていたのは、電話だった。それを受け取り、耳を当てる。

「………はぁ? 旅行?」

 二言ほど話し終えた後、いきなりの母親の言葉に、翔は眉を潜めた。一瞬の空白の後、受話器からは喜々とした母―――つまり、養母である佐緒里の声が聞こえた。

『そおなの〜〜〜〜ょ、翔ちゃん♪ じつはぁ、お父さんと世界一周旅行があたっちゃって〜〜〜〜。今日出航なの♪ 半年は帰らないから♪』

「半年は帰らないから♪、ッじゃねぇッ!」

 突然――――怒りの咆哮をあげた翔に驚いた杏樹が、和室のタンスの角に頭をぶつけていた。それを完全に無視して、翔は叫び続ける。

「朝は買物だッつってたじゃねぇかッ!?

 朝、珍しく夫婦で出かけたのを訝しげには思っていたが、魂胆があるとは思わなかった。

 しかし、佐緒里は何の疑問もなく答えた。

『一応買ったわよ? 着替え』

「全部新調ッ!?

 翔の叫び声に、杏樹が脅えたまま少し曲がっている首筋を押さえているのはさておき―――――――翔は続けた。

「どこの世界に子供だけ置いて世界を漫遊する親が居るんだッ!」

『ここに♪』

 ケラケラとした笑い声と共に放たれた言葉に、翔の怒りが爆発した。

「生活費どうするッ!」

『あ、ちゃんと御金は入ってるわよ♪ 全部使っていいから、いい子にしてるのよ♪』

 瞬間――――切られた。リダイヤルしようと受話器のボタンを押したが、なぜか『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』というアナウンスが流れてくるだけだった。

「お、おにいちゃんさん、お母さんはなんて………?」

 ぐるぐると眼を回し、心なしか首が曲がっている杏樹をみて、翔は電話を差し出しながら、つかれきったように息を吐く。

 そして、少し考えてから答えた。

「養母さんと養父さん、旅行だってさ。半年は帰ってこないぞ」

 翔の言葉に、杏樹が軽く頷く。

「へぇ。そ、そうなんですか」

 その妹の顔を、見上げる。苦笑というより、仕方無さそうな溜め息を吐き出しそうな疲れ切った笑顔で、翔を見ていた。

「………まぁ、別に問題ないか。さて、出かけようか」

「え? どこに行くのですか?」

 いきなりの言葉―――それに、杏樹が反応した。翔は、軽い口調で背伸びをしながら答える。

「今晩の材料だ。久し振りに、すき焼きが食いたい」

 どうせ両親がいないのなら、すき放題に食べたって問題ないだろう。その翔の考えを読んだのか、杏樹が満面の笑顔で頷く。

「いいですね。それじゃぁ、僕も一緒にいっていいですか?」

「ああ、さっさと準備しろ」

 嬉しそうな表情で頷く妹を見て、一瞬背中が寒くなったのを、翔は感じた。

 

 

 実を言うと、妹と出かけたのは久しぶりの事となる。大きくなった上にこの町にも慣れ、恥ずかしさが先立っていたからなのだが、最近はあまり気にしなくなった翔の心境の変化ともいえるだろう。

 というわけで、翔は隣に立っている妹を見た。

 髪の毛を特徴的な髪留めで止め、本当に嬉しそうにコロコロと笑って、隣を歩いている。兄弟で歩くというのを、別段嫌がっているようすはない。

「………なぁ、杏樹」

「はい?」

 笑顔のまま見返す妹を、こちらは半眼で見返して、告げた。

「お前は、恥ずかしくないのか?」

 「え?」という疑問の眼差しを向ける妹を見て、翔はわざわざ自分の腕―――彼女に面している腕を持ち上げた。

 そこには、妹の手―――服を引っ張っているそれを、眼で指しながら、告げる。

「その歳になって兄弟仲良しって言うのは、恥ずかしくないのかってことだ」

「え? 別にそんな事ないですよ?」

 満面の笑顔で返す杏樹を見て、翔はもはや何も言う事が無かった。というより、何かを言った所で聞くような妹ではない。

 妹にひきずられ、翔は近くのスーパーマーケットに入った。入り口で台車と買い物籠を取ると、杏樹が嬉しそうに言葉を発する。

「最初にお肉を買いに行きましょう♪」

「つーか、買物はお前に任す。俺には正直、わからん」

 全く料理の心得も買物の仕方もわからない翔は、杏樹に一任する。元々料理も買物も上手な妹は、笑顔で翔の腕を掴むと、元気に頷く。

「それじゃぁ、お兄ちゃんさん。まず、お肉を買いに行きましょ♪」

 妹に引き摺られながら、翔は辟易したように溜め息を吐く。こういうことになるなら、杏樹だけに任せて置けばよかったかもしれない。

(………まぁ、まわりから変な誤解を受けなくていいとは思うが………)

 それを証明するように、周りの視線は温かい。仲睦まじい兄弟に見えるに違いないだろう。そうでなければ、こんなところに出て来ない。

 野菜売り場に来た時、杏樹が小さく声をあげた。

 そこに居たのは、短髪と凛々しい顔立ちを持つ男―――――それを見て、杏樹が嫌そうに口を開く。

「あ、あれ………。幸樹君………」

 瞬間、杏樹が翔の背中に隠れる。それと同時に、幸樹が振り返り、笑顔で手を振ってきた。

「あ、義兄さんじゃありませんか!?

「誰が義兄さんだ、こら」

 不機嫌そうに言い返し、辟易しきった表情を見せる。

 水村 幸樹―――早い話、杏樹の追っかけだ。幼馴染で、ずっと同じ学校だったのもあるが、何より男女分け隔てなく接する杏樹に、一方的な好意を寄せている奴でもある。ただ、中学校は私立にいったので、杏樹と会えない。

 その彼は、阿呆なのか馬鹿なのか、後ろに隠れている杏樹に気付かずに、笑顔のまま聞いてきた。

「あ、杏樹ちゃんはっ!?

 ビクッ、と身体をすくめる後ろの妹―――それと共に、「絶対に教えないでッ!」オーラが、吹き出てきた。

 少しだけ考えて、翔は答えた。

「海沿いの海岸でお前を待ってるぞ」

「ま、マジッスカッ! い、今から向かいますッ!」

 そういって、彼は駆け出す――――その背中へ、翔は続けた。

「近くの橋で飛び降りて流れていった方が早いぞ〜〜〜〜〜」

「ありやっすッ! 義兄さん」

 振り返りもせず――――彼は、走って行ってしまった。その後姿を眺めながら、翔は呟く。

「………あいっかわらず、阿呆だな」

 幸樹は――――――完全に阿呆である。杏樹が自分の事を好きであると(何故か)確信し、その義兄である翔の言葉を頭から信じていた。

ちなみに、前は杏樹が雪山に遭難したと夏真っ盛りに言ってみた所、富士の山頂まで走っていったという逸話がある。恐らく今回も、完全に向かっただろう。

「ふぅ………ありがとう。お兄ちゃんさん」

「………まぁ、いいさ」

 背中から出て来る杏樹を見て、翔は小さく呻く。

 実のところ、翔は幸樹が苦手でもある。彼自身もそうだが、正確に言えば水村一族―――――それが、苦手なのだ。

 そして、見つけてしまった。

「………おや?」

 それを。

「………あ、絵梨先輩」

 野菜売り場で一個のレタスを持ち、じっくり眺めていた女性が、こちらに視線を向けた。

 眠たそうな半眼、そして杏樹よりは高いが翔の顎ぐらいまでしかない身長に、黒く長い艶を持つ髪、そして、線の細い輪郭。なにより印象的なのは、口にくわえている煙草ではなく、パイポだ。彼女は、いつも何かしら物を銜えている。

 水村 絵梨。幸樹の姉であり、翔の幼馴染。

「………あれ? 幸樹は?」

 頭を掻きながら弟の所在を聞いて来る彼女へ、翔は不機嫌そうに言い放つ。

「そのうち川で流れてるのが発見されるだろ。気にすんな」

「………そうか」

 たいして興味の無さそうに、彼女は視線をレタスに戻した。それを見て、さらに辟易とした表情を浮かべる。

自分でいっておいてなんだが、彼女は心配をすることがない。特に、弟の事など、トイレットペーパーの芯ほど、気にかけていないのだ。

 それが、彼女だ。どこを見ているかわからない上、何を考えているのかも理解できないし、なによりどこか浮世離れしている。

 話しかけない以上、話してもこない―――それの唯一の例外が、翔と杏樹だ。今も、レタスを選んでもったまま、上を見上げている。

「………杏樹。肉買いに行くぞ」

「え? で、でも………」

 言葉に何か言いたげな妹を、翔は無理やり捕まえ、引き摺る。

「………なんだ? 行くのか?」

 絵梨の声―――それを聞いて、頬がピクッと引き攣った。頭だけを相手に向けると、絵梨はすでに無表情のまま、レタスなどの野菜が入ったカゴを、翔に差し出していた。

「………なんだ? これ」

「家の荷物持ちを海に追いやったんだ。荷物ぐらい、持て」

 無理やり押し付けられ、翔は大きく溜め息を吐く。どうせ、何か言った所で彼女は聞き流すだろう。なにより、彼女から話しかけてくる方が珍しい。

「それで? 晩御飯は何だ?」

 翔にではなく、杏樹への問いかけ―――杏樹は、いつもの笑顔で答えた。

「すき焼きですよ〜♪」

「………ほう、美味そうだ」

 コイツ、絶対に晩飯を食いに来るな――――――――確信以上な何かを感じる翔は、大きく溜め息を吐いた。

「それじゃぁ、残りを買いに行くか」

「うん♪」

 そういって歩き出す二人の背中を見て、翔は大きく―――――何十回目かわからない溜め息を、吐いていた。

 

「それじゃぁ、出来たら呼ぶね♪」

 キッチンに買ってきた材料をおくと、杏樹がやる気満々な表情で嬉しそうに言った。それを満足げに頷いて、絵梨は翔を見上げた。

「だ、と」

「どうしろっつうんだよ?」

 何かをさせたい眼で見上げる絵梨を見下ろしながら、翔は淡々と聞いた。彼女は彼女で、少し眠そうな眼をしながら、リビングにあるソファーを眺めている。

 ややあって、答えた。

「寝る」

「………さいですか」

 翔の答えを聞いた後、絵梨はソファーで横になる。どこまで行っても自由な幼馴染だ――――そう考え、翔は何となく、和室のほうへ歩いていった。

 和室から、庭に面した窓を開ける。するとそこには、完全に寝そべっている狼の姿が、あった。

 半眼で眺めながら、足元の石を拾い上げ、投げる。狼の頭部にぶつかり、狼は小さく眼を開けた。

「ああ、お帰り。晩御飯は、すき焼きらしいな」

「………お前には食わせないぞ」

 翔の言葉に、狼が露骨に顔をしかめた。そのまま翔のほうにまで近付き、お座りの体勢をとる。

 そして、静かに頭を垂れた。

「全然御飯食べてないんで、死にそうなんです。どうか、食べさせてください」

「知るか。死ね」

 だいたい、何故自分がこの狼を助けなければならないのか――――そう考えた瞬間、後ろから声が聞こえた。

「ほう。キメイラか。珍しいな」

 一瞬の間、全ての思考が止まった。再度頭が動き出し、驚いて振り返った先にいたのは――――絵梨だった。彼女は、裸足のまま庭に降り立つと、パイポをとりながら狼に屈みこむ。

そして、呟いた。

「しかも、聯合のか。よくも、まぁ、抜け出せたな」

 まるで自然な―――日常会話のような、彼女の言葉。

それに、狼が答える。

「そういうお前は、魔法使い≠ゥ。聯合でも総連でもなさそうだが………」

「まぁ、私は所属なしだ。そこの奴と一緒だな」

 二人―――一人と一匹の会話を聞いて、翔は頭を抱えた。そして、まだ何か話そうとする二人の間に割り込み、眉間を押さえた。

 しばらく考え、幼馴染を見下ろす。そして、聞いた。

「お前、魔法使い≠ネのか?」

「ああ。………言わなかったか?」

 自然な口調―――その言葉に、思わず翔は叫んだ。

「む、昔に聞いたが、嘘だと思ってたわッ! じゃ、じゃあ、何かッ!? 別に魔法使い≠ヘ珍しくないのかッ!?

「まぁ、な。五万人に一人の割合だ」

 事も無げな彼女の言葉――――それに、翔は大きく肩を落とした。今まで、多くの人間、家族にですら話せなかった秘密が、それほど秘密でもなかったのだ。

 肩を落としながら、翔は呟く。

「なんだ………。隠す必要はなかったんだ」

 翔の言葉に、珍しく絵梨が驚いたように見上げた。

「? 君か? 君は隠さないと不味いだろう」

 絵梨の言葉に、翔も眉を潜めた。

「はぁ? ………だってお前、さっき、珍しくないって………・」

「君は確か、魔法遣い≠セっただろう? なら、止めておけ。聯合と総連が血眼になって拘束しに来る」

 絵梨の言葉に、さらに翔が眉を潜めた。その潜めた翔を見て、絵梨も眉を潜める。

それを聞いていた狼が、ようやく思いついたように、口を開いた。

「まて、魔法使い=Bきっと、魔法遣い≠ヘ自分の置かれている状況を知らんのだろ。………珍しいとは思うが」

「………そうだな。確かに、あのおばあちゃんが話すとは思えない」

 勝手に納得する二人を見て、翔はさらに眉を潜めた。なにより話が見えていない。

 しばらく話した後、絵梨が立ち上がる。口にパイポをくわえながら、翔を見上げた。

 そして、いつもの口調―――何の感情も含まない声で、告げた。

「魔法遣い≠ニ魔法使い≠ヘ、珍しくはないが、禁忌なんだ。特に、魔法遣い≠ヘ」

 そして、裸足のまま和室に戻る。ぱっぱと足の裏を払い、少しだけ振り返りながら、呟いた。

「君は、何も知らないほうがいい。知らないほうが幸せなことが、この事」

 そういって、彼女は部屋から出て行った。

 その背中を見送った翔は、搾り出すように呟いた。

「………なんだよ、それ」

 自分よりも何かを知っている彼女が、幼馴染とは思えなくなっていた。

 

 

 

「いや、肉は牛に限る」

 前言撤回。

 庭から戻った後、夕食時まで眠り腐った挙句、すき焼きへ最初に箸を伸ばした絵梨を見て、翔は四文字熟語を噛み締めていた。

 目の前―――リビングのテーブルの向かいに絵梨と杏樹が座り、自分は御飯を飲み込んでいる。杏樹に渡された味噌汁を飲み干すと、小さく呟く。

「よくも、まぁ、半生で食えるな」

 鍋にしいてさほど経っていない肉を、咀嚼する絵梨へ、訝しげな視線を向けながら告げた。

当の絵梨は、あまり気にした様子も無く言う。

「レアだ。流行っているだろ?」

「それはステーキだ」

 律義に返すと、杏樹が笑っているのに気がつく。少しだけ嫌そうに顔を歪めながら、尋ねた。

「何がおかしいんだ?」

 翔に問われ、杏樹は嬉しそうに微笑むと、答えた。

「お兄ちゃんさんと絵梨先輩は、仲いいですね。ちょっと、羨ましいです」

 杏樹の言葉に、翔は思わず絵梨を見た。絵梨は、気にした様子もなく肉を頬張っていたが、それを飲み干すと、少しだけ小首を傾げる。

「「そうか?」」

 見事に同調した言葉に、杏樹は嬉しそうに笑う。絵梨は気にしていないようで、もう一度鍋に箸を伸ばし、肉を拾い上げ―――――――。

「おい」

 彼女の箸を、自分の箸で掴む。その反動で肉を鍋に落としてしまった絵梨は、珍しく不機嫌そうな顔で見上げ、告げた。

「なんだ? 迷惑な」

「………お前、肉ばっか食うんじゃねぇよ」

 しかも、まだ火の通っていない肉――――すでに、半分が消えていた。それを睨みつけるように見て、翔はその視線のまま絵梨を睨みつける。

 絵梨が、再度肉を拾い上げようとする―――それを、箸で叩いた。

 不満げに見上げる彼女の視線、それを無視する。なのに、つまもうとする彼女の箸を、きっちりと叩き落した。

 バン――――どちらかとも無く、箸がテーブルに叩きつけられた。テーブルの上で睨みつけるぐらいの距離に近付くと、翔は告げた。

「てめぇ、いい度胸してんじゃねぇか………。俺が一枚も食ってないうちに、半分平らげるなんて、よぉ」

 絵梨は、感情のこもっていない半眼―――しかし、それに少しだけ怒りが混じっているようだったが―――で翔を睨みつけ、吐き捨てる。

「私の甘美なひと時を邪魔して、生きていられると思うのか?」

「人ン家で、ずいぶんと強気だな」

 ピク、ピク、と頬が引き攣る―――――それを見上げながら、杏樹は呟く。

「いつもの事ですねぇ」

 程好く焼けたお肉を咀嚼しながら、杏樹は舌鼓をうっていた。

 杏樹が二人の事を仲が良いと言った理由は、ここにあった。二人は、仲が悪いというのにいつも近くにいて、互いに気分を害しているのだ。それが、杏樹としては羨ましいかぎりである。

「まだお肉はたくさんあるんですから、座って下さい。ほら、お兄ちゃんさん、しらたきも美味しいですよ?」

 いつまでもにらみ合っている二人へ、杏樹はなだめすかす。

さすがにお腹がすいたのか、翔も絵梨も静かに座り、すき焼きが焼けるのを待っている。

「………なんだかんだ言って、杏樹。おまえ、結構食べてるだろ?」

「えへへぇ〜。漁夫の利ですよ〜」

 こうして、食事は続いた。

 

「なぁ、水村………やめろよ」

 横になりながら、翔は視線を彼女へ向けた。彼女は、というと、部屋の中心でなんかしらの雑誌を広げ、御茶を飲んでいる。

 問われた絵梨は、読んでいる雑誌から視線を上げ、翔を見た。そして、露骨に嫌そうに―――当然、怪訝そうに小首を傾げ、答えた。

「何を、だ?」

「………てめえ、本当にいっぺんしばくぞ?」

 そういって、身体を持ち上げる。そして、今いる自分の状況を完全に把握して――――――告げた。

「俺の部屋でエロ本持ち出して中心で読んでいる貴様は、なんだ? 新手の拷問か? つ〜か、どこから持ってきた?」

 彼女は、あろうことか部屋の中心でエロ本(しかも見覚えが無い)を広げて、しかも御茶を飲んでいるのだ。

 ちなみに、翔の部屋にはエロ本が無い。持ってきたり、買ってきたりしたとしても、杏樹がどこからとも無く探し出し、捨てるのだ。その事件もあるが、思春期の妹の手前、うかつな行動が出来ないことも原因だが。

 当の彼女は、その重大な事実を指されても気にした様子もなく、本に視線を向けながら告げた。

「今日、本屋で買ってきた。少し、興味があって」

「………よく買えるな。しかも、真っ昼間から」

 行動力がある、といえば聞こえはいいが、彼女の場合は奇行と言うほうが正しい。唐突に、あまり考えた様子もなく行動を起こすので、何かしら問題を起こすのだ。

 それは、今も同じである。

「え、絵梨先輩………」

 その隣には、杏樹がいた。なぜか知らないが二人が翔の部屋に押しかけ、今の状況に陥っているのだ。

 その杏樹は、やはり初心(うぶ)なのだろう―――顔を真っ赤にして言葉を搾り出す。

「ん? 興味があるのか? ほら、一緒に」

「やめぃ」

 枕を投げ、彼女の行動を阻害する。その相手は、小さく舌打ちをすると、呟く。

「まったく………。君は何故、いつも私の邪魔をする?」

「俺の目の届く範囲でするてめえが悪い」

 淡々とした口調で答え、立ち上がる。腰と首を鳴らしながら、大きく背伸びした。

 時計を見上げる。そろそろ、夜も更け始める頃だった。慣れたものだが、どこと無く不謹慎だろうと考えながらも、告げた。

「さて、送ってってやるから、さっさと帰れ。水村」

「………珍しいな。君が送るとは」

 珍しく、彼女が驚きの顔をあげる。全く感情を見せずに、翔が答えた。

「お前の弟がいないんだ。一人で帰らせるわけには行かないだろうが」

「………」

 絵梨の視線が、翔の顔に突き刺さる。それを見返すと、彼女は大きな溜め息を吐いて、頷く。

「わかった。帰ろう。………このエロ本は、ベッドの下でよかったか?」

「持って帰れ。杏樹、部屋から出ろよ」

 エロ本をベッドの下に入れようとする絵梨を払いのけ、部屋で座っている杏樹に告げる。彼女は彼女で、少しだけ顔を紅くしながら答えた。

「わ、わかってるよぉ。絵梨先輩、おやすみです」

「ああ。おやすみ」

 絵梨と杏樹を部屋から追い出し、絵梨と翔は外に出た。

 すでに暗くなり、人も街灯も無い道――――そこを、二人で歩いていた。

「………秋も近いな」

 物珍しく口を開く彼女へ、翔は淡々と告げた。

「秋だッつうの」

「………そうだったか?」

 時期としては、十月も下旬―――――そう知っていても、翔は溜め息すら出てこない。

 彼女は―――言うところの、時期音痴なのだ。そんな言葉があるか分からないが、恐らくあったとしたら当てはまるだろう。

「真夏にコート、真冬に半袖着てくるような奇人に、いまさら無視だ」

「………今日は、二月か?」

「十月だッつうの! さっき「秋も近いな」って言ってただろうが!」

 時期どころか、カレンダーすら彼女は見ていない、と翔は確信している。というより、今日が何月何日でも彼女には興味が無く、どうだっていいような感じさえ受けた。

 つまるところ、彼女に季節感はなく、また興味があるようには思えない。それは、出会った頃からそうだし、これからだってそうだ。

「それで、聞きたいのか?」

「………話が早くて助かるな」

 こういうとき、絵梨の鋭い洞察眼は楽だ、と翔は思う。それでも、出会った頃からずっと変わっていない親友が、自分の知りえていない知識を持つことが、恐ろしくもあった。

 その絵梨は、面倒臭そうに頭を掻く―――それでもきちんと説明をしてくれるようで、口を開いた。

「早い話、魔法使い≠ヘ魔法使い≠ナ、魔法遣い≠ヘ魔法遣い≠セ」

「わかるか」

 濁点がついているか否かの差は分かるようになったが、何の解決にもなっていない。だいたい、このいい加減な幼馴染に物事を聞こうということが間違いなのだろうか。

 そう思ったとき―――後ろから声が聞こえた。

「魔法使い≠ヘ、森羅万象のどれかを使い、不思議を起こす事が出来る存在だ」

 そこにいたのは、黒い狼――――それを見て、翔は呟く。

「………狐」

「いい加減、イヌ科の生物として認めてくれ」

 生物として認めることが負け、のような気がするので、それは無視する。それでも突然現れた理解者に、少しだけ安堵の息を吐いた。

「不思議ってのは、なんだ? あれか? 空を飛ぶとか、縄を蛇に変えるとか――――」

「それは、魔法使い≠ナはない。………まぁ、複合能力者なら何とかならないわけではないが、そんな能力者は、見たことがない」

 そのまま、絵梨を見上げる。その視線に気がついていないのか、無視しているのか分からないが、絵梨は完全に無視していた。

「………魔法遣い≠フ能力は―――――」

 狼が口を開こうとした瞬間、絵梨と狼の気配が変わった。

 変わったと感じた刹那、二人がゆっくりと振りかえる。それにあわせて、翔も視線を向こうに向けた。

 道の先―――そこには、ひとつの影があった。街灯も無い、月明かりだけにはっきりと強調される黒―――それを見て、絵梨が口を開いた。

「注意が足りないんじゃないのか? キメイラ」

「………まさか、俺の鼻につかないとは思えなかったんだ。どっちにしろ、所属なしの魔法使い≠ェいるんだ。黙っていても来ただろう」

 そう二人が話している―――間に、翔は様々な事に気がついた。

(………物音が、聞こえない)

 さっきまで聞こえていた虫の鳴き声、車の音、生命の気配すら辺りから消え去っていた。そしてなにより、驚くべきは――――目の前の存在。

 少しだけ、浮いている。その浮いている高さを抜けば、高さは翔の半分未満―――人間としては、小さすぎるその身丈。

 それを見て、絵梨が事も無げに告げた。

「どうやら見つかったようだな。………まったく、キメイラがこなければ、平穏な日々が続いていたものを」

 そう呟きながら、絵梨が影に近付く。さすがに驚いた翔が引きとめようとするが、狼が前に回りこむ。小さく頭を振ると、翔にではなく、絵梨へ告げた。

「気にする事は無い。どうせ、いつかは来るものだ。なぜなら、俺が来た」

「………フン」

 短くそういい、絵梨が口にくわえているパイポを掴み、放す。

 そのまま、彼女は自分のポケットから缶を取り出した。ウォッカなどを入れておくアルミ製の缶だが、彼女は気にした様子もなく口でキャップをあける。

 そのまま、中身をあたりにぶちまける――――辺りに、水が散らばった。

「何する気だ………?」

「あれが、魔法使い≠セ」

 刹那――――影から銀色の刃が煌めいた。それが刃物だと気がついた瞬間には、影が彼女の身体に吸い込まれ――――吹飛んだ。

 プシュっという軽い音と共に、何かがはじけ飛ぶ。それが、血だと考え付くのに時間はかからなかった。

「み、水村ッ!?

 次の瞬間――――彼女の体が、はじけた。それが水だと気がつく前に、それらが尖った。

一瞬の間の後、槍となって影に突き刺さる。一瞬後、影が落ちていった。

「………ほう。水を操るのか。………なるほど、水村というだけある」

「名前は関係ない」

 唐突に聞こえる、真後ろからの声。驚いて振り返った先には、いつの間にか絵梨がいて、しかも口には新品のパイポをくわえていた。

「お、おま、おまえ………」

 言葉を無くす翔に、水村の声が答えた。

「………言うまでも無いが、私の能力は、大まかに言えば、水を『媒体』として移動することが出来る、だ。制限はあるが、私自体も可能だ。そこにある水によって距離は変わるが、あれぐらいの移動ならあの量で十分だ。ま、奥の手、と言うのもあるが」

 事も無げにそういい、彼女は静かに狼へ視線を下ろした。つまらなそうに頭を掻きながらも、見たことの無い怒りの表情で、呟く。

「一瞬、遅かった。数日のうちに聯合の奴が来るだろうな。………どうするんだ?」

 狼は、小さく唸りながら、呟く。

「………しばらくは、大丈夫だろう。見たところ、魔法使い≠ヘ強いようだし………視察に来る相手を何とかすれば、問題ない」

「………やっぱり、そうしかないか」

 そういうと、絵梨がさっさと振りかえる。そして、歩き出した。

「お、おい………。そっち、俺んちだぞ?」

「知っている」

 そう言いながら、顔だけ振りかえる。完全に怒りの表情のまま、彼女は告げた。

「状況は変わった。私より、君の方が今は危険だ。送ろう」

 そのまま、歩き出す。

呆然と――――完全に、呆けた表情のまま立ち尽くす翔を、狼が押す。見下ろすと、狼が身体を摺り寄せ、告げた。

「安心してくれ。俺は、十五年間二つの組織から逃げ切った。それに、彼女はあれほどの強さだというのに、見つかっていない。………一度だけ隠れていればいいんだ」

「………なんだよ」

 狼を振り払う――――それでも、翔は動けなかった。

 唐突過ぎる、世界の転換に。

 

 


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